ルノワールの「複雑な」色彩

Conservation note:ルノワールの「複雑な」色彩

森直義(本展展覧会コンサヴァター・森絵画保存修復工房代表)

今回のような大型の国際的な展覧会に際して、作品の保全に関する仕事を担うのが展覧会コンサヴァターで、わが国では通常、外部の修復家に委託されています。

本展の作品は全て、日本に輸送される前にパリで点検され、コンディション・レポートにその状態が記録されています。そのレポートと比較しながら点検し、作品輸送に立ち会ってきたクーリエと、日本で預かった時点での状態についての合意を得るのが展覧会コンサヴァターに課される最初の仕事です。

作品の状態を見ると言っても、詳細な調査を展示前に行うのは、時間的にも経費的にも、作品の保全の観点からも現実的ではありません。点検は基本的に、額装の状態のまま、肉眼だけの観察だけで行われるので、どのように何を見るか、ということが重要になります。

絵画は平面作品と呼称されますが、モノである限り、無論、純粋な平面というわけではありません。とても薄い紙に描かれているとしても何ミクロンかの紙と彩色層があり、それによって色彩の美しさが形成されていて、劣化要因もそこに同時に発生します。本展のルノワール絵画は、ほとんど、麻布、地塗り、油絵の具、ワニスなどの層によって形成されています。それによって色彩の美しさが成立しているわけですが、各層は成分や特性の異なる物質ですから、パリから東京までの振動や温湿度変化によって劣化しやすい構造を併せ持っていることになります。そこで、私たちは点検に際して、絵画の物質的構造全体を視野に入れながら、劣化の状態を観察、記録します。つまりは、短時間で、色彩の美しさの正体と保存状態を一気に把握することが求められるのです。機械的に表面の状態を記録するだけではなく、ルノワールがどのように描いたか、どのように保管、修復されてきたか、ということを考えて見ることも大切なわけで、そこが楽しいところ、役得です。

点検作業をする筆者(右)、展覧会監修者(左)とオルセー美術館関係者(中)

《ジョルジュ・シャルパンティエ夫人》(1876-77年頃)の眼

今回、ルノワールの作品を点検してあらためて思ったのは、その色彩の複雑さです。

例えば、《ジョルジュ・シャルパンティエ夫人》(1876-77年頃)の眼を見てみましょう。実に多くの色彩が絡み合っているのを観察できます。様々な色彩が使われているというだけではなく、絵の具の溶き方を変えて何層も重ねています。特に眼の周りの部分は、複雑すぎて色彩が濁り、もはや色彩としては美しいとは言えないほどです。

こんな独特の絵の具の使い方を、ルノワールは、どのようにして獲得したのでしょうか。展覧会の最初に登場する《猫と少年》(1868年)の少年の眼を見ると、造形に主眼が置かれた表現で、きりりとした少年の眼の周囲に氾濫するような色彩はありません。この絵の下方部のサインに近い部分には、赤、青、緑、黄を絶妙に混色するルノワールに特異の混色がすでに見られますが、少年の眼にはまだ複雑な色彩は現れていません。

《ジョルジュ・シャルパンティエ夫人》(1876-77年頃)の眼

《猫と少年》(1868年)の少年の右眼

それが、1869年頃の作品とされている《テオドール・シャルパンティエ夫人》の眼になると、やや暗いグレーがかった色調のベース上に、あまり希釈していない絵の具を使ったスピード感のある筆の動きが見え、造形と色彩が共存しているのを見て取れます。《ジョルジュ・シャルパンティエ夫人》のように、色彩が支配的になる前の段階のひとつの試みで、ルノワール独特の色層への変化が始まっているように思われます。

《テオドール・シャルパンティエ夫人》の眼(1869年頃)

《ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会》のジャンヌを描いたとされる人物の眼を見ると、希釈した絵の具を複雑に眼の周囲に使いながらも、眼には、プルシャン・ブルー、コバルト・ブルー、セルリアン・ブルーと近似した三色のきれいな青を絵の具をあまり溶かないで印象的に使っています。この溶き方を画面の部分によって変えていく技法は、この作品全体に渡って観察できます。チューブから出したままの絵の具から、ほとんど顔料の色の実体が分からないほどに希釈した絵の具まで、多様な溶き方をした絵の具が一つの画面の中で共存しています。晩年に近づくと、希釈した絵の具だけが塗り重ねられるようになり、時には液状に垂れてしまっている箇所をよく見かけるようになります。

《ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会》の眼(1876年)

本展にはルノワールが使ったパレットも展示されています。このパレットの指穴の手前に二連の油壺が付いていて、よく見ると、一つの壺の根元には垂れた油がこびりついていて、もう一つはきれいです。おそらく、油が垂れている方にはリンシード・オイルなどの乾性油の類が入っていて、もう一つには揮発性油のテレピンが入っていたのではないかと思われます。 ルノワールは、この二つを調合しながらも、さらっとした質感になるテレピンを多用した画家だったと思います。

油絵の具は、基本的に色素としての顔料と乾性油を練り合わせたものです。乾性油の酸化によって少しだけ体積を増して、ぷりっと固まってできる輝きと透明感が油絵の具の生命線です。大多数の画家が溶き油を使いますが、ルノワールのように時には油絵の具の美しさを破壊するまでにテレピンで希釈したり、変幻自在に溶き方の違う絵の具を使ったりして、最終的に破たんのない画面を作り上げた画家は彼以外には見当たりません。ここが、ルノワールの真骨頂と言っていいでしょう。

少し単純化しながら、ルノワールの技法について話を進めましたが、傑作が集結した展覧会全体を見ると、実体はさらに豊かで圧倒されるほどです。よくもまあ、こんな複雑さを描き切ったものだ、と思います。

ルノワールのパレット

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